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島原の乱で討死した板倉重昌の「焦燥」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第93回

■島原の乱のおける重昌の「焦燥」

 

 重昌は旗本の石谷貞清(いしがやさだきよ)と共に九州に派遣されます。この人事は、幕府が一揆の規模を見誤ったのが原因だったと言われ、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は小藩の重昌では統制がとれないだろうと指摘したとの逸話が残されています。

 

 九州の諸侯も小身の重昌が着任したことを受けて、幕府の本気度を疑い戦意が低下したようです。そのため、討伐軍による再三の攻撃は低調になり、士気の高い一揆軍の籠る原城を破ることはできませんでした。

 

 遅れて幕府は、家光の信任が特に厚い老中松平信綱(まつだいらのぶつな)と、副将として戸田氏鉄(とだうじかね)を派遣しますが、これは戦後処理のためだったと言われています。

 

 しかし、重昌はこの幕府の処置を知り、自身の指揮権がはく奪される事を恐れ、急ぎ討伐軍による総攻撃を計画します。そして、この作戦で無理な突撃を行い、重昌は討死してしまいます。この時幕府軍は死傷者4000人という損害を出したと言われてます。

 

 この攻撃計画に対して、家光は無謀な敗戦だと非難したとされています。最終的に、島原の乱は信綱たちの着任と諸侯の増援によって鎮圧されました。

 

■チャンスを目の前にして生まれる「焦燥」

 

 重昌は家康の近習筆頭人として頭角を表し、重要な役目を担うなどの活躍をしていましたが、家康の死去後は外交的な職から外されていました。

 

 重昌としては、久しぶりに与えられた出世の機会で、大きな功績を残さなければという「焦燥」があったのだと思われます。

 

 現代でも、久々に得たチャンスを奪われるかもという「焦燥」に駆られ、失敗に終わり組織に大きな損害を与えてしまう例が多々あります。

 

 もし、信綱たちの到着を待って原城の攻略に臨んでいれば、幕府軍は大きな損害も出さず、重昌も討ち死にもせずに済んだのかもしれません。

 

 ちなみに嫡子の重矩(しげのり)は遺領を継承すると、四代将軍家綱(いえつな)の下で老中にまで進み、5万石にまで加増されています。

 

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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